2015年4月20日

【W#148】マドリード(5)〜ゲルニカとピカソ

2015年4月11日。マドリードに戻ってきた。いよいよスペイン滞在も最終日。バルセロナからマドリードへ最初に訪れた際に見ることのできなかったパブロ・ピカソの「ゲルニカ」をみるために、ソフィア王妃芸術センターに伺うことになった。

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なぜ、ピカソがゲルニカを描いたのか?についてはスペインの内戦を知る必要がある。スペイン内戦について簡単に書きたい。

スペイン内戦は1936年〜1939年の3年間にわたって、マヌエル・アサーニャ率いる左派の共和国派とフランシスコ・フランコ率いる右派のナショナリスト派によって争われた。左派と右派はずっと対立が続いた上で、バスクやカタルーニャの独立も絡んで複雑な様相を呈す。

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背景にあるのは、スペイン王政が打倒され、左派が政権を取った1931年、スペインの住民の1/3が読み書きができず、土地所有者のわずが2%が耕地の半ば以上を占有することから、世界恐慌のもとでは民主主義を育つのが難しかったことだ。

ナショナリスト派は、イタリア、ドイツやポルトガルからの支援を受け、共和国派は、旧ソ連から支援を受けて戦争が進んだ。なお、イギリスとフランスは中立をとった。なお、ヘミングウェイは実際に義勇兵として共和国派の一員として戦っている。後に、ヘミングウェイの「誰がために鐘がなる」はその経験に基づいて書かれた。

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スペインの内戦は第二次大戦の前哨戦といわれるのは、ナショナリスト派についたナチス・ドイツが爆撃機を使用する機会を得たこと。これが後にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻する際に役立つことになる。

結局は、ナショナリスト派の勝利。内戦により60万人近くが死亡、経済が復活するのに50年代に入るまでかかることになる。参考に、スペインの地中海側に位置するコルタ・デル・ソルに訪れた際、第二次大戦後のスペインの経済復活について書いた(【旅コラムVol.132】参照)。フランコ独裁政権の樹立により、バスクやカタルーニャを含めた共和国派側の弾圧が行われるようになる。バスクやカタルーニャの言語の使用が禁止された。

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共和国派を支援したメキシコには10,000人近くが亡命。共和国派は、スペイン共和国亡命政府という形でメキシコやパリで存続。1975年フランコの死亡後、フアン・カルロス1世が独裁政権を引き継がず、民主化を果たした1977年以降、共和国亡命政府がスペインに復帰するまで続く。

35年続いたフランコ独裁体制によりカタルーニャとバスクは独立心をより強固に進めるようになる。カタルーニャの独立については、【旅コラムVol.127】で触れた。

バスク地方にある一都市のゲルニカは、ドイツ空軍のコンドル集団によって無差別爆撃を受けた。これをピカソは主題して選んで描いた。ピカソは共和国派を支援、ピカソは死ぬまで反フランコを貫いたことが背景にある。

ゲルニカは、パリ万国博覧会のために描かれたもの。共和国派が敗れたため、1939年以降、アメリカのニューヨーク現代美術館(MoMA)に保管されることになる。最終的にスペインに戻ってきたのが、民主政権が生まれた1978年以降。プラド美術館の保管を経て、1992年のソフィア王妃芸術センターのオープンと同時に、現在の場所に移された。

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ゲルニカに至るまでのスケッチを含め、ゲルニカ専用の部屋があり、その作品の大きさとインパクトに圧倒された。しかも、事前にツアーのガイドから上記の歴史的な背景の説明を受けた上で作品を見ると、戦争の無残さ、怒りや反フランコへの姿勢など、ピカソがなぜ、このようなものを書いたのかもある程度理解できる。

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バルセロナでピカソ美術館を訪れる機会があったが(【旅コラムVol.126】参照)、その時に感じていた一画家とは違った感性みたいなものを感じることができる。

これで、スペインの全日程が終了。日本への帰国前にミュンヘンを経由して戻ることになった。その際に、バイエルン・ミュンヘンの本拠地、アリアンツ・アリーナを訪れることができた。そのことについて書きたい。