2015年11月7日

【YogaコラムVol.48】プラーナーヤーマ・連続講座(7)〜チッタと心

2015年11月3日、4日の2日間に渡って行われたプラーナーヤーマ・連続講座。今回は、パタンジャリが経典「ヨーガ・スートラ」でまとめた内容についての紹介があった。

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ヨーガ・スートラの第1章2節をとりあげつつ、この経典の特徴について取り上げたい。第1章2節は、ヨーガの定義について書かれており、サンクスリット語で以下のように表記される。

Yoga citta vrtti nirodhah(ヨーガ・ス・チッタ・ブリッティ・ニローダハ)

現代人のためのヨーガ・スートラ」の翻訳を参照に、その意味を探ると

「ヨーガとは心の動きを止滅させることである」

となる。

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ヨーガ・スートラは、必要最小限の言葉で書かれており、「動詞」が使われていないところに一つの特色があるという。また、一つのサンクスリット語で9つ近くの解釈があり、主にサンクスリット語の学者が翻訳に携わることが多く、実践者による解釈が入っていないところに注意が必要だという。そういった意味で、素子さんがインドのカイヴァリアダーマ研究所のShri O. Tiwari先生から学んだという解釈は自分の今まで学んだものとは違うものに感じた。

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例えば、ヨーガの定義については、水路(Channelize)という言葉で例えられた話を紹介。水を必要な場所に配布するというのがヨーガのイメージに近いという。心の働きを止滅するというよりも、心の働きを必要なときに必要な場所に届けるといったらいいのだろうか。心の影響を越えていくところにヨーガの意義があるという。

ではその心は、どのように考えたらいいのか?

Cittaを単純に日本語で「心」と訳したのだが、ヨーガ哲学(正確にはサンキーヤ哲学)において「心」は3つの要素があるという。

  1. Manas(マナス)=Mind=「心」
  2. Ahankara(アハンカーラ)=Ego=「私」
  3. Buddhi(ブッディ)=Intellect=「知性」

Manas=「心」は自分のおしゃべりをおさめるのは(=自分の主張が強い状態)、非常に難しいから、ネガティブなものとして捉えられている。

Ahankaraは、Wrong sense of ‘I’とも言われ、例えて言うならば所有物を共有するのではなく独占するという意味。それに対照的な言葉として、Asmitaがあり、これはRight sense of ‘I’。所有物を共有することを知っている私という言葉と使い分ける。いいか、わるいか?の一つの基準は「信頼」とも。ネガティブなものがCittaの中に入っていて、ポジティブなものがはいっていないというのはある意味興味深い。

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Buddhiは知性。ブッディがうまく働ければ、マナスとアハンカーラはバランスが整うという。ただ、知性に偏ると逆に良くない場合があるケースがあるということも触れていた。

このようにcittaはどういうものなのか、を知ることによって最終的にヨーガをどのように実践していけば、「心の影響を越えていくところ」に到達することができるのか?を考えられるようになる。

他に、サンキーヤ哲学における25の原理や非具現・具現の世界についての説明があったが、もう少し、この点に関しては、「現代人のためのヨーガ・スートラ」を読んでみたいと思う(下記は同著からの引用)。

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素子さんが、Intellectual understanding(頭による理解)とPractical understanding(実践による理解)の双方によってヨーガの実践が深まると言っていたが、Intellectual understandingももちろん大切。しかし、それだけで終わってしまうケースが多いとのこと。それよりもはるかに肝要なのは、practical understanding。それは実践で腑に落ちた理解である。そのため、

実践をレギュラーに真摯にしなさい

が本当にに大切だと、素子さんは強調されていた。

次回は、哲学の内容とプラーナーヤーマの練習で気づいたことについて書きたい。

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