2015年2月16日

【R#62】Phase III(8)〜Seeingと知覚すること(2)

前回、本コラムにて、Body Readingの際、Seeing(観察すること)も大事だが、「知覚すること」(クライアントの身体にどのような変化があるのか?施術中に知覚すること)とのバランスを図ることについて触れた(【RolfingコラムVol.58】参照)。もう少しこのことについて触れてみたい。

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実は、知覚的見方というのに出会ったのが、今回が初ではなくある本を通じてだった。経営学者であり、クレアモント大学院の教授でもあった、ピーター・F・ドラッカーの「新しい現実−政府と政治、経済とビジネス、社会および世界観にいま何が起きているのか」。1989年に出版された25年前の本で、旧ソ連を含めた社会主義諸国がなぜ崩壊して行ったのか?何か本を教えて欲しいと大学受験の頃(1990年頃)父に聞いたところ、紹介してくれた本だ。ドラッカーがこの本を書いたのが何と80歳のとき。この年齢でもこういった質の高い書物を出せるのか?と驚いたのを覚えている。

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この本は、経済や経営の歴史の移り変わりを語っているのみならず、その根底にある世界観(哲学)の変化について語っているところがすごい。象徴的に現れているのが、最終章の「終章:分析から知覚へ〜新しい世界観」だ。少し長くなるが、紹介したいと思う。

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まずは分析的見方について。同著ではコンピュータを例に以下のように述べている。

コンピュータは、ある意味で、17世紀の末、デニス・パパンの時代に始まった物理的な世界という、分析的かつ概念的な世界観の究極的な表現だった。コンピュータは、パパンの同時代人で友人だった数学者、ゴットフリート・ライプニッツの発見に端を発している。ライプニッツは、あらゆる数字がデジタルで、つまり1と0によって表現できることを発見した。

さらにまたバートランド・ラッセルとアルフレッド・ホワイトヘッドの「数学原理」が、ライプニッツの発見を、数字という限定された範囲を超えた論理にまで発展させた。
その結果、明確にデータとして示されるかぎりにおいて、あらゆる概念が、1と0によって表現できることが明らかにされた。

したがってコンピュータは、パパンの師ルネ・デカルトの概念的な分析的モデルの勝利でもあった。

対照的に、知覚的な見方について。現代の生物学の例を挙げる。

近代生物学によれば、生命は遺伝コード、すなわちプログラム化された情報として記録されている。あの不可思議な実体としての生命も、超自然的な説明に頼らないとするならば、情報によって組織された何者かであるとしか説明はできない。

そして生物的なプロセスは、分析的ではない。

物理的な現象では、全体は部分から成り、かつ部分の合計に等しい。したがって、分析によって理解することが可能である。しかし、生物的な現象には、部分はなく、すべて「全体」である。部分を合計したとこで全体にはならない。

確かに情報そのものは、分析的、概念的である。しかし、「意味」は分析的、概念的ではない。それは知覚的な認識である。

こういった知覚的な見方が、心理学とモダン・アートの世界に現れており、分析的な見方から知覚的な見方の移行について以下のように説明している。

実は、分析的な概念から知覚的な認識への発展は、コンピュータ登場の前から始まっている。1世紀ほど前の1890年代、形態(ゲシュタルト)心理学が、われわれが理解できるのは「C」「A」「T」ではなく、「CAT」であることを明らかにしている。現実に存在するものは、すべて知覚的な認識であることを明らかにしている。

爾来、児童心理学、行動心理学、臨床心理学など、心理学のほとんどあらゆる分野が、分析から認識へと重点を移行させた。

(略)

現代絵画が「現代」的であるのは、絵を鑑賞する者ではなく、絵を描く者が見るものを表現しようとするところにある。

それは、たんなる描写ではない。「意味」である。

最後に今後世の中に起きていることに関しては(生態系の問題、グローバルの経済問題、資本主義の様々な問題など)

デカルト以来、重点は概念的な分析におかれてきた。しかし今後は、概念的な分析と知覚的な認識の均衡が必要である。

まさに、私が本コラムで触れてきた分析的な見方と知覚的な見方のバランスの大切さがわかりやすく述べられていて興味深い。

こういった観点からもう少しロルフィングに注目して、body reading等を考えていければと思う。